ものすごく遠回りな 人生を送ってきました…。 でも現嫁と子息囲まれ幸せを味わう日々
よろしいでしょうか。
私 43歳 180以上/体重増加中(現嫁の陰謀)
平凡な会社の平凡な管理職
A 44歳♀
B 45歳♀
C 33歳♀(現嫁)
D 5歳♂
幸せを味わう日々です。でも、ここに至るまでにものすごく、遠回りな
人生を送ってきました…。
書き貯めしてないので、ぼちぼちすすめます。
自分語りなんてろくでもないけど、許してください。
それから、パンツはしっかりはいておきましょうw
髪がとてもきれいな金髪でした。
パツキンだと?
では激しく浮いた存在でした。というのも、彼女は北欧のある国から
交換派遣でやってきた留学生で、地方の高校にはあまりに似つかわしく
ない存在だったからです。
私は、みなさんの言うアスペ+コミュ障なのだが、昔から語学に興味が
あって、高校でも英語の弁論大会に出ていたりしたので、当時の担任に
守役を仰せ付けられたのです。なんちゅう無茶なことですが、仕方なく
半年間、守役を務めました。
ではなく)で、北欧人ってこういう考え方をするのか…と思ったことと、
超内面重視で、(柔道の井上康生に似てる)私にも、積極的に声をかけて
くれ、話を引き出そうとしてくれたので、それなりに楽しく守役をつとめ
ることができました。
人生振り返った時すごい感慨深い感情に
なるんだろうなぁ
波乱万丈の人生ってなんか憧れるな
それで、半年後、Aが帰国しました。帰国前には、手をつないだり、
休日にはデート、とはいってもボーリングしに行ったり観光案内を
したりですが、健全な高校生のおつきあいwをさせていただきました。
帰国してからAと私は、今では考えられませんが、文通というやつ
をずっと続けていました。
話すと3~4千円する時代、月二回のペースで手紙をやり取りすることが
続きました。相手に届くまで約1週間かかるので、自分が書いた内容を
覚えておかないと、話がかみ合わなくなるし、結構英語力が鍛えられた
かもしれません。それに、毎日ポストをチェックしていたのも、今と
なってはいい思い出です。
いいなぁ 今の時代誰が書いても同じ文体だから
手紙とかすごく羨ましい。
宝物になるやん
乗り越えられたから良い思い出になるが、最中だと地獄だぞ…下手すりゃ人生狂うしな
私は関西の国立大学に進学し、それなりにサークルに入ったりしていま
したが、持ち前のコミュ障を発揮して、女性に凸したりなどということ
はしていませんでした。Aとの文通は続けていましたが。
途中にも関わらず普通にここまでの話も羨ましいと思ってしまった
3回生になって2か月ほど欧州旅行へ出かけました。当時はバブル経済
がはじけた…のか?という状況で、私はある社団法人の事務のバイトを
していましたが、今ではありえないバイト料がもらえる仕事で、2か月
放浪できる軍資金も十分貯めることができました。
ありません。
どこと行先を決めていなかったのですが、一月ほどポルトガル、モロッコを
放浪し、さて、北欧でも行こうか、と思い、Aに電話してみました。
私「モロッコ」
A「うちの国に来ても、今寒いよ~覚悟しときな」
私「そうなん?」
…本当に遭難しそうになりました。時は3月。リスボンの空港を出るとき
は30度だったのに、着いた空港の気温は -2度w。たった 2時間のフライト
ですが、あの時の寒さは今でも覚えています。
Aの町に到着しました。Aは「会うの、 5年ぶりだね!」とハグしてくれ
ました。その時おそらく、私の心に転機が訪れたのかもしれません。同時
に、長い長い遠回りの始まりでもあったのです。
就職して一人暮らししていましたが、私はAの実家(歩いて5分)
に泊まることになり、ごやっかいになりました。Aの父は公務員、
地元では顔役です。
Aと過ごした5日間は、積もる話をお互いにしたり、Aの町やその
周辺の観光(といっても、見るものは何もないド田舎ですが)で、
あっという間に過ぎていきました。本当、私のようなコミュ障が
なぜAとはコミュニケーションを保て、楽しめたのか、今でもよく
わかりません。Aには感謝しています。
私「次は日本に来いよ!神戸とか案内するよ」
A「お金貯めてからね(苦笑)」
当時でもそうですが、北欧のかの国は所得税・付加価値税で収入の大半を
持っていかれます。社会保障は充実していますが、あまり貯金をするとか
社会に出て数年の女の子にはハードルが高い話でした。
っきりバイトに打ち込める日々に入りました。というより、バイトしかする
ことがない残念な男でしたが…。ふと、貯金通帳を眺め、Aを日本に招待
してやろうと思ったのです。
久しぶりに電話してみました。
私「A、久しぶり!」
A「>>1、どうしたの?」
私「日本に来てみる?」
A「行きたいけど、お金がまだたまってなくて…」
私「僕がチケットあげる」
A「いらない」
私「どうして」
A「>>1にお金もらう理由がない」
私「宝くじが当たったんだよ。臨時収入。別に自分の腹は傷んでないよ」
A「そうなの?うーん」
A「じゃあ、もらう、ありがとう、>>1!」
電話を置いて、何だかワクワクしてきました。下心があったわけではない
けど、Aに会いたい、Aと話したいという気持ちが強くなってきました。
ワクワクしてきたぞ!
チケット代は渡し切りで、Aに滞在期間を決めてもらいました。
京都、奈良、大阪、神戸、2週間半ほど旅行を楽しみました。
自分も一人暮らしだったのですが、別にAとアレコレしたいとか考えず、
サークルの後輩たち(♀)の部屋にAを泊めてもらえるようにお願いし、
朝迎えに行って夜送って自分は下宿に帰る、今から思えば変な旅行です。
なにより、その当時私はまだDT。チューもしたことがない輩でした。
2週間半ほどたって、Aの様子がとてもおかしいことに気づきました。
熱が38度あり、慌てて病院に連れていきました。
医「腸炎だね。とっても疲れてるよ、彼女。それに、何か精神的に抱えて
いるものがあるように見える。胃腸炎はそういうのが原因になるから
ストレス解消させてやれよ、彼氏君」
私「いや彼氏とかじゃないすw」
医「じゃあ、診察中カーテン引いたのは正解だね」
私「大ピンポンですw」
医「まあ、とりあえず、数日安静にさせてあげて、お大事に」
とりあえず、点滴と薬のおかげでAは後輩宅で休めた。私は安堵の気持ち
と同時に、Aが抱えているものについて、その夜ぼんやりと考えてみた。
帰ってからね。
おんちゃん!仕事あるんやし無理しないでね(*・ω・)ノ
続きまだ?
私も週末には嫁C実家へw
オレは大して忙しくはないから。
むしろおっさん明日大丈夫か心配(^_-)-☆
翌日、私はAを迎えに、というよりAのお見舞いに後輩宅に行った。
Aはだいぶ顔色がよくなったが、白人なのでやっぱり青白く見え、とても
心配だった。
後輩「彼女、一晩中泣いてましたよ。>>1さん、何したんですか!!」
私 「うるせーばか何もしてねえ」
後輩「今日ワタシ、用事ができたから彼女泊められませんよ」
私 「わかった、いろいろ手数をかけた」
しかたないので、彼女が泊まるホテルを手配した。神戸の夜景でも見て
もらおうと思い、とある場所をチョイスした。平日だから難なく予約も
でき、Aと私はそのホテルに移動した。
そう私は思っていた。コミュ障の持てる力をフルパワーに活用して、Aに
リラックスしてもらおうとした。せっかく日本まで来たのに、Aが沈んだら
旅行が台無しになる、そればっかり考えていた。
何時間、一方通行的な時間が過ぎただろうか、最初は何とか笑ってくれた
Aの表情もだんだん硬くなり、とうとう泣き出してしまった。見たことも
ない号泣だった。
全部実話です。
拳をおいて、ぎゅっと握りしめつづけていた。白い手が赤くなるほど。
30分ほど泣き続ける彼女を見て、私にはもはや、かける言葉が見当たら
ず、私はAに「ちょっと出かけてくる」と肩に手を置いて声をかけ、部屋
を後にした。
花に違いない!」と考え、ホテルの下層階にある花屋(これでホテル特定
されたかもなw)へ駆け込んだ。
店員「いらっしゃいませ~」
私 「は、花束下さい」
店員「どなたに送られますか?彼女さんですか?」
私 「えーっと、大きいの下さい、できるだけ大きくてバラがいいです」
小学生かとw
店員さんも、閉店前なのに赤いバラなどで大きな花束をアレンジしてくれ
た。急いで支払いを済ませ、息を切らせて部屋の前に戻り、大きく深呼吸
して、ノックした。
再び、泣き始めた。私が手に持った花束を見て…。
私「A、泣くなよ、僕もAが泣いたら悲しいよ」
A「>>1、どうして?」
私「何が?」
A「>>1はどうして、私にそんなにやさしくしてくれるの?」
私「なんでって…友達じゃねーか。Aが泣いてるのは見てらんないよ」
A[>>1はバカなのか?じゃなかったら、>>1はひどい人間だ」
「なんで>>1は私を日本に呼んだの?なんで私にそんなに親切にしてくれる
の?なんで私と文通を続けてくれたの?なんで去年私に会いに来たの?
>>1は私をどうしたいの!?」
私は、Aの問いを前に、何も言うことができませんでした。
私も、Aと一緒に泣き始めました。
あたりがうす暗くなり、2人が泣きやんだ頃、Aがぽつっといいました。
「>>1は、私と付き合いたいのか?」
付き合いたい →その通りだが、そこまで考えていなかった。
付き合いたくない→それは絶対にNO
おそらく、私は、生きてきた21年あまりで一番醜い顔をしていたかもしれ
ない。Aは私を凝視して、のち、目を静かに閉じた。
コミュ障の極地にいる私でも、Aが自分に何を要求しているのか、理解した。
DTが猿のようにいく展開をご希望かもしれないが、その時私のHPはゼロ
に近かったので、唇を重ねる、実に静かなキスだった。Aと私の周りの時間
が、すっと静かに止まったような、そんなキスだった。
Aと私は、お互いにこだまするようにつぶやいた。
Jag älskar dig.
Jag älskar dig.
>Jag älskar dig.
>Jag älskar dig.
どういう意味だよw
お互いに服を脱ぎあい、下着姿になった。体を寄せあうと、頭がしびれ
そうで、そして、とても温かかった。日中はとても暑かったが、夜は
寒さの残る季節だったから。
でも、私は大事なことに気が付いた。
①これからの行動には帽子が必須
②ここは帽子を部屋においているホテルではない
③帽子を買いに行くのは嫌だ、Aと一緒にいる
結局、ふたりとも、下着は取らずにそのままお互いを探るように愛撫
しながら抱き合って、朝まで一睡もできなかった。
I& AUML wa anata o aishiteimasu.
AUMLさんだれだよw
JAG =I
A(上に点が二つ)LSKAR =LOVE
DIG =YOU です。
無能でごめん…>_<…
俺のレスでスレの流れを悪くしちゃってるから、僕に構わず続けて( ´ ▽ ` )ノ
としか思わなかったのかもしれない。もう薄汚れっちまったので、当時の
ピュアな心には戻れませんw
次の日の朝、私はAに、私の実家のほうに行かないか、と提案してみた。
Aも実家にとめてくれたんだ、そのお返しだと。
駅に向かうコンビニで帽子を買ったときの、Aと私の悪童のような笑顔
は今でも思い出す。
別に重要人物ではないので、スペックは入れないw
とはいえ、高校時代にお互い見知った顔なので、お袋はAに着物を着せて
みたり、親父の運転で観光したり、それなりに協力はしてくれた。ただ、
私にとっては、両親の介入は有難迷惑wな面もあったことは否めない。
Aも私も、それから1週間、猿のようにお互いを求め合った。
パンツON・OFFどっちがいいよ?
>>1的には書きたいんだろうなと思った
俺的にはオフ
好きなように書いてください。
なんかオレ張り付きすぎやなw
支援
文才ないので中途半端に行くw
実家から電車を乗り継いで、倉敷に行った。
実家の周りはヤバスなのでね。
美観地区、瀬戸大橋、それから岡山に行って後楽園と城を見た。
見たというか、そのどこでも粘液交換状態orz
解き放たれたDTくらい始末の悪いものはない。Aも私も、物陰に隠れ、
お互いの体をまさぐったり、ベロチューしたり、まあよく警察の世話に
ならなかったものだと思うし、現嫁Cとその場所を訪れた時には軽く
フラバが来て困ったw
Aはあちらの女性には珍しく背が低いほう、といっても160強だが、
パイはDカップで乳首の色もさすがに薄い。もうキタコレ、吸いっ
ぱなしでした。Aも私のご子息をシフトチェンジしつつ、2人で狂った
ように、というか狂ってるな、楽しみました。実家に帰るには遠いので、
ホテルに泊まり(ファッションホテルというものに初めて泊まったが)
お互いの穴全部、丁寧に舐めあいっこしたりした。
Aも私も初めて同士、全然うまくドッキングできなかった。
当時はまだ伊丹が大阪の国際空港だったので、伊丹空港に着くまで、
お互いを求め合った。でも、Aは…最後に切なそうに言った。
A「>>1は絶対に後悔するね」
私「後悔しない、してもいい、しなかった後悔より100億倍ましだ」
A「絶対に、後悔するよ」
ある意味、予言だったかもしれない。続く、10年の彷徨を考えれば。
今日は夜から友達と遊びだから見れない(´ω`)トホホ…
明日楽しみにしときます会社いてら( ´ ▽ ` )ノ
うっわ、私気持ち悪いorz いろんな意味で酔っ払いすぎw これからは控えめに、淡々と続けますね。
みなさん、ご支援ありがとうございます。
大阪(伊丹ね)からは直行便がなかったし、まだ旧ソ連(CISね)
が面影をとどめている時期だったので、南回り使ったときには20時間、
ルフトハンザとか使った時には13時間の道のりも、全然苦にならなかった。
私は、このままAと結婚できたら、と夢想するようになっていた。
日本に帰っても、電話や手紙のやり取りで、とても充実していた。Aは
しきりに電話料金を心配していたが、一月10万円コースだったから、私は
よっぽどアホなのかもしれない。ひとえに社団法人バイトのおかげだった。
就職した後も、Aとのやり取りは続いていた。今考えると、あのころが
リア充ベスト期だったかもしれない。就職した会社はいわゆる特殊法人で、
21世紀を迎える前に整理されてなくなってしまったが、罰当たりなくらいの
待遇だった。
夏至祭の日だ。北欧では夏至祭はどんな小さな町でも盛大に祝われる。
イチゴ相場(キロいくら)が新聞紙面をにぎわせ、白い服と白い花冠を
つけた乙女たちが、メイポールの周りで夜通しダンスする(白夜だけど)
その日に、彼女にプロポーズした。夏至祭の取材に来ていた地元の記者に
取材を受け、次の日の新聞に「サムライ、バイキングの娘に求婚する」と
写真入りの記事にされた。田舎の新聞だが、結構影響力が大きく、しばらく
の間は知らない人から声をかけられることもたびたびであった。
TVで外国のカップルがプロポーズするシーンがあって、女性が筋肉反射で
「オーイェース」なんて答えているのをみると、現実味のなさに苦笑いする
ところだが、Aと私の間では、やはり、Aにとって沈思黙考が必要だったの
だろう。
じっと、私を凝視した後、Aが言った。
「私を私として愛してくれ。>>1、そうしたらあなたの求婚を受け入れる」
私はメイポールによじ登りたい、そのうえで裸踊りでもやらかしたい気分
だったが、国辱をさらすのは不本意なので、それは避けたw
代りに、Aを抱きしめた。とても、幸せだった。
した。まずは神戸に引っ越した。神戸は北欧人のコミュニティがあり、北
欧系の会社(テトラパックとかIKEAとか)が日本支社や店を比較的
出している。Aは仕事を続けたい人だったので、AがAらしく生きられる
ように、Aが私との結婚で不自由を感じないように、そればかり考えていた。
西日本出身者ながら、雪道を滑らずに歩くテクも少しずつ板についてきた。
Aの両親も、私を義理の息子として受け入れてくれるようになっていた。Aの
部屋に泊まっても、もはや何も言わない。ボクシングデーの夜、開始してから
帽子がなくなったことに気づいたAに、「今からすぐ買いに行け」とダイヤ
モンドダストの降る寒空へ薄着で放り出されても、何も苦にはならなかった。
コンビニもない田舎なので、実質コンビニのガソリンスタンドに行くのだが、
そこの店長はAの長兄…orz
顔合わせを正月にセットした。両親は三男が最初に嫁取りするのはどうか
とごねていたが、知ったこっちゃない。Aは2月に一旦国に戻り、GWに
日本で結婚式を挙げることにした。天下を取った気分だった。本当に、
取っても取っても取り切れない金貨に囲まれたマリオ状態だった。
あの日までは。
起き。新聞に目を通し、シャワーを浴びる。Aはまだベッドの中。
どうでもいい、Aは!Aは!
Aはベッドの中で、ろう人形のように固まっていた。何の表情もない、
レリーフのような、そんなAに服を着せ、自分も身支度をしてAを抱き
かかえ、荷物をまとめ、外に出た。道を挟んで南の家は、きれいさっぱり、
つぶれていた。Aを背負い、荷物をもって、歩く。しかし、どこに行けば
いいんだ、気が付いたときには、西宮まで歩いていた。昼だった。
でも何とか電話した。「>>1君大変だったね。ホテル用意しているから、
彼女さんと一緒に入りなさい」上司に指示された大阪のホテルに着いた
のはそれからさらに数時間、夕暮れ時だった。
Aは身じろぎ一つしない。呼びかけにも答えない。無理もない。地震の
ない国の人が、強烈な一撃を食らったのだから。
がたい言葉をくれた。Aを心配しながらも、私は神戸の自宅まで歩いて
往復し、さしあたりの荷物をまとめてホテルに戻った。Aはまだ、彫像
のように動かないままだった。Aが私と言葉を交わせるようになったの
は、それから一両日後のことだった。
Aはすぐ国に帰りたい、と私に泣いてすがった。私もそのつもりだった。
Aをひどい目にあわせた、すぐに返してやろう、私はできるだけ早い便を
予約し、Aを送った。地震から2週間後、成田からAは帰って行った。
Aの長兄が教えてくれた。Aは私の電話に出ない。私はいたたまれなさと
Aに対する申し訳なさで、毎日Aに電話をした。Aは私の電話に出なかった。
しまった、Aが心配で心が裂けそうだ、頼むから返事をくれ…そんな、
今から考えればバカな紙爆弾を毎日毎日、Aに送り続けた。電話も
続けた。Aから連絡があったのは、4月の終わりだった。
A「>>1…私を愛しているか」
私「バカな質問をするな、答えは一つしかないだろ、愛してる」
A「>>1、>>1…」
受話器を通して、嗚咽が漏れてきた。私は、天を仰いだ。
上司に事情を話し、強く慰留されたが、結局短い引継ぎをして、私は会社を
退職した。退職金なぞ望めない若造だったが、上司が職場で呼びかけてくれ
て、カンパを集めてくれた。ありがたく頂戴し、次の日、私はAの町へ向か
った。
見守っていてくれた。今から思えば、言葉もない。
Aの町に着いたのは、11月初め。どんよりとした曇り空だった。
>>1ではないし、めぐりあわせの問題だから、気にするな。Aは大丈夫だ
から、>>1も自分を見失うな、と。
自分を見失うな。
この言葉が本当に心に入ったのは、それから6年後のことだ。
お二人ともすごく純情だったんですな
私「もう絶対、ひどい目にあわせないよ。ごめんな、ごめんな、A」
それでも、Aと私の間には、髪の毛ほどの、見えない、隙間ができたように
感じられた。
私に限っては、純情というか、圧力かけるバカでした。
電車で1時間かかるところに仕事を見つけてた。日本食品とか日本雑貨の
卸で、社会人経験があり、日本語、英語、スウェーデン語がいくらか
できて、日本人で近所済み、という私はすぐに採用された。
でもない。俗にいう裏バイトだ。給料は笑うぐらい安かった。
そのころ、旧ユーゴがバラバラになっていく過程で、難民が北欧に多く
押し寄せてきたんだが、各国も頭を悩ませていた。養えない。社会保障
を彼らに与えるほど余裕がない。Aの国はアメリカのように生地主義を
採っていたが、赤ちゃんはいてもいいけどセルビア人のお母さんはカエレ!
とかいうのをニュースで見たりして、すごく鬱になっていた。
生地か白塗りサッシだ。冬の間、キッチンのラジオをつけて、そこから、薄
暗い外を眺めて雪が静かに降るのを眺める、そんな日々が続いた。
北欧の冬は、人を枯らす。マジで。
神戸に戻ると、そのころは復興が始まっていたので、道路工事がそこかしこ
で行われていて、警備や土木作業員の仕事はあふれるくらいにあった。
履歴書?なにそれ、食うたらうまいんか状態w
現場を掛け持ちして日銭を稼ぎ、Aのもとへとんぼ返りし、当地では裏バイト
に精を出す日々が、半年以上続いた。
いた。自分を見失い、あせり、Aに何かを押し付ける、地球の裏側からやって
くるストーカーになっていた。
Aとは次第に口論が絶えなくなっていた。
私が一生懸命Aを思っているのに!私が、私が、私が…
最悪な男だ。
>>1は>>1じゃなくなった。私を私として愛してくれないのか。
もう、終わりにしよう。私はもう、>>1を愛せない。
思いつく限り最悪の暴言を吐き、私はAの家を飛び出した。
Aの長兄とは何度か連絡を取っているが、そのことは伏せておいてほしいと
頼んでいる。
Aの家を飛び出した私は、あてどもなく北へと放浪を始めた。
日本の国土より広い国に、人が日本の10%もいないのだから。ましてや
ラップランドと呼ばれる地方を、クリスマスシーズンでもなしにほっつき
歩く日本人は、かなり変に映ったかもしれない。
自殺すんなよ、そう何度か声をかけられた。死にそうな顔をしてたのかな。
きれいじゃないが、オーロラが見えた。なんだか、全部がばかばかしく
なって、もう帰ろう、そう思った。
一週間後、私は再び神戸に戻った。
TVの外国紹介番組でオーロラを映しているのを見て、私と子息Dの会話
私「お父さんな、オーロラ見たことあるんやでー」
D「なにそれ、僕も見た」
とりあえず男親に負けたくない5歳。お前はお父さんのお袋さんにも格納
されてなかったと思うよ、といったら、現嫁に殴られたw
嫁は、私がオーロラを直視できるようになったのを、少しうれしく思って
いるようだ。
需要ありますか ^^;
応援してる。
楽しみにしてますよー
続けてみます。
貯金も底をつきかけ、生活のためにある企業に就職しました。
この会社も今となってはなくなりましたが、社長が数年前に大きな新聞沙汰
になった、ブラック企業です。
やりゃやるほどバックのある会社だったので、ブラックでも関係ねえ、そんな
毎日だった。
職場は大阪ミナミ。さすがはブラック企業、夜討ち朝駆けで会議とかw
そんなある日、私は終電後帰宅するため、タクシーを捕まえようとして
いました。
たちがサァビスして下さる類のものではなく、単に外国人が集う店。
ペイパーショットでそんなに高い店でもないので、ふらっと入ってアブソ
リュートを注文。止まり木で飲んでました。
同じアブソリュートを注文し、ほれ、と渡すと、姐さん、私の横にもたれ
かかり
間欠泉のように吹き出すゲロ。
すいませんが今日のところはお引き取り下さい、と店員さん。
姐さんの保護者にされてしまった orz
な毎日を過ごすことになる。ただ、今から思えばあくまでもAを引きずって
いたからそうなったのかもしれない、ということで、しばらくはAの続編。
ここに放置して逃げてやろうとした私だが、背後から足首をつかまれて
歩道とキスする羽目になった。
私「何しやがるこのビッチ(英語で)」
姐「うるせえこのサノバビッチ(英語で)」
ああヤダヤダ、まだ人目も多いのに…。
姐「葉っぱあるか」
私「何言ってんだ、入管呼ぶぞ」
姐「ちっ、ガキが」
ここで両者沈黙…
また吐きゃがった!今度は顔面直 orz ドイツ人何食ってんだ、臭え…
姐さんはABCの列に入れたくないので、スペックは当時30代前半、
170太目としておきます。
朝、しらふに戻った姐さん。なんかけだるそうに帰って行きました。
私は泣きながら自宅に戻り、着替えて会社に戻りました。
始発2~3本目でしたが、自宅に戻るときのみなさんの視線が痛かった。
さて、その日の帰り道。姐さんにまた遭遇 orz
知らない人、知らない人、ボクエイゴハナセマセン…
姐「オーイ、ゲロ男」
私(殺す)
振り返ると、4人連れ。全員ユーロ。
私「金ならない」
姐「昨日の借りだ、ついてこいや」
…そういうことなら!(・・)ゝ
何も生まない、何も残さない3年間が始まりました。
しないうちにコミュ障を克服してしまいましたw 4人のうち2人は
イタリア人。外人バーから見て御堂筋の反対側にあるお店で働いている
とのこと(ポールダンサー)。1人はフランス人(Aにちらっと似てる)
で、何していた人かよく覚えてません。
…で、気が付いたら、そのフランス人とベットにいましたorz
えーっと、話を整理する前にもうちょっとがんばりましょう…
…
賢者タイム×4
ことになりました。
携帯、アパート、日本旅行中の仕事からレンタカーなどなど。
だいたい、その筋の方々がそうしたお仕事を請け負われるはずなのだが、
と姐さんに聞くと、
姐「私はニッパイ(日本人の配偶者)、あの子たち旅行者。だから、
ヤ○ザはだめなの」
おい、旦那の日本人ほっといて何してるの…
ちなみに、旦那にもあったことがありません。
4人とも女で?
酔っ払った勢いで?
ホテル?
葉っぱ吸って?
くぅーたまらん!
なり、その中でもいろいろと高い授業料を払いました。
勤務中に「家賃払ってくれないんですけどね!」とお怒りの電話がかかって
きたり、モノ壊されただのなんだの…面倒に巻き込まれましたw
報酬(なのかな)は、飲みとお体orz
現嫁は断じてタバコを嫌うので、お留守の今がチャンスw
時効だと思うんだけど(15年経ってるし)、お注射を目撃したことも
一度や二度ではありません…orz
たぶん、人間的にラリってたのだと思います。いろんなものに未練を
残して、清算もできずにウジウジと毎日を過ごして…。
仕事にも全く身が入らなくなっていきました。
です。
気が付いたら梅田のホテルでレイディとウ○コまみれで寝ていたこともあり
ます。スカしたのではなく、ゲロが下に来ただけw ホテルから脱出するのに
相当苦労しましたorz
鬱、アルコール依存症で、それがわかったのも私の長兄がこそっと私を訪ねてきて
(ちょうど私が半年ぶりに自宅に帰った時だったw)、無理やり病院に連れて
行かれたためにわかった次第です。
長兄「親父お袋には黙っとく、ただし3か月だ。3か月で生活を立て直せ。
いろいろ、俺のところにも話が飛んできている。大人になれや!」
しこたま殴られましたが、何をする気にもなれませんでした。
愛がなくてもできますが、人生がヘドロまみれになるリスクが
高いです。本当、病にかかってないのが奇跡のような、そんな生活でした。
現嫁Cには絶対に言えません。
たぶん、金曜日の夜に全部終わると思います。
すいません、ひどい落書きです。実話ですが。
必ず完結させて下さいませ
おんちゃん!お疲れ
無理すんなよ
さて、ヘドロ生活にピリオドを打つため、私は半年の時間を要しました。
・飲みには加わらない
・据え膳は食わない
これは最初からしたのですが、保証人関係をすべて切るのに、やっぱり
時間がかかりました。姐さんには「なんでやめるの」とさんざん言われ
ましたが、人間やめる前にあんたとの関係を断ちたいと思っていたので
まあ、お互い、最後は笑顔で別れました。
私は98年ごろからネットを始めていました。とはいえ、半年に1度しか
家に帰らない人だったので、姐さんと別れてから本格的に始めたわけです。
で、そのころ使っていたのが、icqだのメッセンジャーだの、今でいう
LINEやカカオに、skypeに相当するものだったのでしょうか。
何とはなしに登録してみると、いろんな方のコンタクトが入りました。
コミュ障なので、多くはあまり長続きしなかったですが、その中でBに
出会うこととなったのです。
今日の夕方、B編をスタートします。
楽しみに待っています
夕方待ってます
私は
・入手経路に関心を持たない
・自分では絶対やらないが、相手の否定をしない(止めるのはムリ)
・自分と一緒にいるときには、やらせない
の三原則を貫いていました。
北欧にいた時にも、結構見かけました。暗い冬、酒を飲み、虚無に走って
商店の窓ガラスを割りまくり獣のように吠える廃人たち…。
脱法ハーブのニュースに触れるたび、一時の快楽で身を亡ぼす簡単さを
思い起こす次第です。
お帰りなさい。待ってました。
ひょんなことから、AのFacebookを発見した。娘が一人いるらしい。
おばちゃんになったが、美貌とエメラルドアイは相変わらずだった。
娘はまだ小さいが、Aにそっくりだ。ほほえましく見させてもらった。
連絡は、しないほうがいいよね。
icqやメッセンジャーで私にコンタクトしてくるのは、おおむねアジアか
ユーロの人たちだった。中でも多かったのが、かの国の人々w やたらと
コンタクトをぶつけてくるお方がいらっしゃった。どうも近々、日本へ
旅行しに来るが、知り合いがいないので不安だとのこと。仮にZとしよう。
Z「明日から3泊4日で日本に行きます。大阪空港に迎えに来てくれますか」
私(なんだこいつ、知り合って10分もたってません)
私「ツアーじゃないんですか」
Z「個人旅行がしたいんです。それに私、日本語を勉強しているので、
大丈夫です」
私(じゃあ一人で動けや)
まあなんとずうずうしいというか、北極人(地球が自分中心にまわって
いる人)の典型です。とうとう根負けして、
私「大阪空港ね。朝ね。分かりました」
バックレてやろうかと思ったが、姐さんの調教が行き届いていた私は、
とりあえず大阪空港(関空です)に向かった。
…また、人生の歯車が動き始めた。
この時点で私、Zの人相風体を知りませんorz
Z「>>1(ハンドルネーム)さーん!!」
恥ずかしいですからやめて下さい。
Zは3人連れでやってきた。なんだ、個人旅行じゃないじゃんw
後に聞くと、Zは後先ない大見栄を張ったらしい。私のよく知ってる日本人
が(誰が!?)が日本を案内してくれるから大丈夫、と友達2人を説得し
日本にやってきたとのこと。
Zは当時20歳、少女時代のティパニwに似ている娘だったが、絶対に大工事
したんだろうと思われる。
でも、態度がでかいorz
友達2人も不安そうなので、しかたない、優しいおじさんを演じて、奈良
と京都を案内した。
奈良公園ではZはじめ3人がシカに迫られて「オンマー!」とマジ泣きする
姿を見たり、夕飯に鶴橋に連れていき「私たちは日本に旅行しに来たんだ
けど」と説教を食らったり、まったくもって銭にならない週末をエンジョイ
したorz
を行き来する支点のひとつです。コリアタウンであることは、私の蛇足を
待つまでもないでしょう。
Z「>>1さんありがとうね。はい、これ、お土産」
大きな発泡スチロールのタラ箱を私にくれるZ。はい、中身はわかります。
これを神戸まで持って帰れとw
はた迷惑な1時間を経て自宅で開封。2日常温保管したキムチorz
まあ、小分けしてありがたく頂きました。
案内する機会が増えた。50歳のオランダ親父に頼まれて、ハッテンサウナに
叩き込み、そのまま逃走したのもいい思い出w
それからも、Zからたびたびコンタクトがあった。
「どうですか、>>1さん。カンコク、来ませんか?」
全然関心ないんですけどw っていうか、韓流のハシリの時期で、個人的に
うざいと思っていたので、しばらくは適当に流していました。
Z「>>1さん、送りましたよ」
私「何を」
Z「チケット」
私「あ?」
Z「あなたのメッセンジャーアクセス傾向から、週末は何もせず、家で
PC(かの国の人はコンピュトあるいはピシという)しかしていない」
私「大きなお世話です(もう30歳、節度ある大人です)」
Z「来ないともったいないので、チケット必ず使ってください」
…へーい。
生まれて初めての韓国だったが、町行く女子の紫色ルージュの毒々しさ、
20年前の日本を思わせる街並み、指定されたリムジンバスに乗って待ち
合わせ場所に行くまで、ただじゃなかったら来ないな…などと不謹慎な
ことを考えていました。
ロッテホテルの近くの「タンポポ領土」とかいう変な名前のカフェに着いた。
Z「>>1さん、ここです!さすが、一人でも来れましたね」
私「おかげさまで。チケットありがとうございます」
っていうかおい、カフェ中のお客さんがこっち見てますよorz
韓国にまで来て壺でも買わされるのか orz
20人くらいぞろぞろ連れ立って会議室に通された…どうする私 orz
ひとまず安心。
Z「今日は日本から、>>1さんが来てくれました!>>1さんはヒキコモリの
廃人(ヲタ)です」
…大爆笑の歓迎ありがとうございます。ちなみにヲタとかではありませんし、
きちんと正業に就いておりますorz
ことに対する感謝の思いがあったこと、そして、この日本語の集いのゲスト
を探していたことにあるらしい。
最初の印象は、まあよくみんなまじめに勉強したり討議したりするよな…
そんな感じだった。かの国の人たちが、せまい会議室で日本語だけで、日本
語、日本文化や趣味について語り合ったりしている姿を見て、毒気を抜かれた
というか、ほほえましいというか、日本ではあんまり見ないなあと、傍観
していた。
と呼ばれる人がいた。それがBだった。Bは私より 2歳年上、今思えば、
女子プロゴルファーのイ・ボミを少し発酵させたような面立ちだった。
聞くと、Bは高校で日本語を教える教師だとのこと、そして、20代前半の
参加者はだいたい、自分が高校で教えた「デシ」だとのことであった。
センセイ、デシじゃなくて生徒じゃないですかと思ったが、そこは
大人の分別で黙っておいたw
Bもいろいろと余禄にあずかったらしい。かの国って、先生に袖の下を
使う文化がいまだにある。
不思議な2時間が過ぎ、男性メンバーたちが私を飲みに誘ってくれた。
・韓国どうですか (来たばかりです)
・食事良いでしょう(まだお茶しか飲んでませんが)
・韓国のオンナ、情が濃いですよ!紹介しますよ、>>1さん!
(結構です、まだトラウマを治療中です)
どうしてしらふで、いろいろベタベタ話ができるのか、まったくもって
不思議な奴らだと思った。
胃袋に何もない状態で、宴会が始まった。
ビールを飲みながら、いろんな話を聞いていた。時折トクトだの教科書だの
そういう話を吹っ掛けられたが、ここはアウェーだ、パスを繰り出す相手も
なく、適当に流してやった。
男1 「さあ、>>1さん!時間です!」
私 「へ?」
男1 「爆弾酒いっちゃいましょう!」
男ALL「ワーイ」
逝ってしまったw久々に酒で記憶が飛んだw
…一応、尻の貞操と貴重品は守られたようだが、ここはどこだ?
テーブルに手紙が。一生懸命書いた小学生チックな字だった。
読みにくいので漢字を混ぜるが、原文はほぼ全部ひらがなorz
「>>1さん、男1です。たくさん飲ませました。ごめんなさい。
>>さんが疲れていると思いましたので、ここに運びました。
ホテルの冷蔵庫に酔い覚まし(ヘジャンと書いてあった)と
胃腸薬を置きましたので、飲んで下さい。
それから、韓国人も悪いところが多いですが、>>1さんもあまり
怒らないで、厳しいことを言わないで下さい。」
…なにかやらかしたのかな、私はorz 後に男1に聞いても、笑って答えて
くれなかった。
参加するようになった。会社の経費といっても、件のブラックが韓国へ
進出を始めたので、志願して参加しただけで、決して横領ではないw
参加した結果、様々な体験をすることになったが、それは本題ではないし、
嫌韓でも親韓でもない私にとっては、単なる笑いの思い出だw
集いに参加するようになって、Bとの会話が増えてきた。
Bはクリスチャンで、飲みには参加せず、ひたすら健全なお方だった。
その健全なBとの会話は、ただれちまった私にとって、とても安らかな
リハビリ時間であったことは否定できない。
わからなくなってきた。深く考えることを、私の頭と記憶が拒んでいた。
Bとはいろんな場所に行った。また、研修旅行で日本に来た際には、
わざわざ東京から神戸まで、夜行バスを使って会いに来てくれた。
ある朝、神戸を訪れたBが、私の自宅にやってきた。前触れなしだ。
お茶を入れていると、Bが私にこう言った。
B「>>1さん」
私「はい」
B「>>1さんは私と交際していますか」
…Bの日本語はディテールでいろいろ変だった。そして、彼女の敬語は
ここで終わりを迎えた。
私「…」
B「なぜすぐ答えないか!私のことどう思っている?」
私「良い女性だと思います」
私はいつの間にか正座。
B「私はもう33だ。女として結婚しなければいけない年だ。>>1がはっきり
しなければ、私は女としての時間を無駄にすることになるんだから。
私と結婚するか。結婚しないなら、>>1とはもう会わない!」
私は、少し考えた後、こう返事した。
私「結婚を前提に、お付き合いしていると思っています」
これがハニートラップかw
Bは続けざまにこういった。
B「ひげを剃れ」
私「はい」…剃りました。
B「スーツを着ろ」
私「はい」…怖いので着ました。
B「今日は何曜日だ」
私「日曜日です」
B「どうして寝てる?」
私「休み、だからかな」
B「教会に行こう」
私「はいぃぃぃ?」
B「いやか、私と結婚するのは嘘か?」
私「嘘じゃないけど、今日結婚?ちょっと…」
B「バカか。日曜日は教会に行く日だ」
どんな仕打ちを受けるのか、とどきどきビクビクしていたが、連れて
いかれた教会は穏健な感じで、少し安心した。賛美歌を歌い、牧師の
話を聞き、教会に行くのも悪くない、と思ってしまった時点で、私は
相当主体性がない。
日曜ごとにチェックが入るので、私はそれ以降、敬虔に教会に通う人
になってしまったw
次兄も結婚して家を離れ、家には親父お袋しかいない状態になったので、
長兄「介護が必要な年でもないんだから、まあ、親孝行と思って実家に
帰れ。わ・かっ・て・る・よ・な、>>1よ」
私 「はいorz 身辺整理に着手します」
ブラックの社長とも気まずくなっていたし、会社にも未練があまりなく
なっていたので、これまた短い引継ぎで私は退職した。有給がしこたま
残った状態だったが、はいさよなら、離職票を渡されたorz 退職金が
思ったより入っていたのが救いだった。
いたが、何とかなるし、Bとの交際が終わったわけではない、と話す
と、Bは少し安心したようだった。
長兄が世話してくれた会社に就職するのは癪だったので、ハロワに行き、
現在勤めている会社に就職が決まった。平凡な会社、とスペック欄に
書いたが、取扱商品はあまり平凡ではなく、そのためかあまり景気に
影響されない会社ではある。
∧,,_∧
⊂(´・ω・)つ-
/// /::/
|::|/⊂ヽノ|::|」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
さて補足。
①私が意識を取り戻したホテルは、いわゆるモーテルでした。かの国では
今でもモーテルがビジホ扱いですが、私をどこに送るべきかわからない
男1たちが、とりあえずここなら、ということで放り込んだらしいw
きちんと会計までしてくれていたw 冷蔵庫にあった酔い覚ましは、
冷え冷えのアワビがゆとトマトジュース。取り合わせの悪い…orz
②Bが私に凸したのは、Bの両親が結婚まだか!とBに迫り、大騒動に
なったためだとのこと。後に教えてくれた。その当時はBの両親は
私の存在を知らず、Bにお見合いを無理強いしたため、切羽詰まった
Bが「何とかしてくれる>>1」を目指して凸したらしいorz
Bが敬語をやめたのは、私が年下だからです、ハイw
通っていた。Bも、福岡経由で私に会いに来るようになり、その時に
自然と両親にあいさつを済ませた状態になった。
ある日、仕事から帰ってくると、お袋が言った。
母「>>1や、Bちゃんいい子だね。お昼前に家に来て、家事を手伝って
くれたし、食事まで作っていったよ。Bちゃん大事にしなよ」
私「マジデスカ(一言も言わなかったのに)」
ところが、私はある異変に気が付いた。
のカバーがかけてあったのはご愛嬌だが、そんなことはどうでもいい。
私の思い出ボックスが、ベッドに鎮座していた。
や写真その他、副葬品にしたい品々が納められた思い出ボックス。その一角
にあるはずの物件が、ない!
Aの手紙とAとの写真が、ごっそりなくなってしまっていた。
代わりに、一枚の紙が入っていた。
ごめんなさい。私は見ました。そして知りました。
>>1さんは昔の女が忘れられないですか。
私は>>1さんの奥さん(マダデスヨorz)として、>>1さんがこういうもの
を持っているのは悲しいです。だから韓国に持って帰って焼きます(焼く
とかw)。
>>1さんは、私だけを見て下さればいいです。
神様も>>1さんを見ています(なんという脅迫orz)。
愛しています。 B
でねorz
その夜、Bからメッセンジャーにコンタクトがあった。
B「参鶏湯、おいしかった?」
私「おいしかったよ」
B「私、さっきソウルに帰ったんだ。夏休みの小旅行w」
私「うん」
B「ごめんね」
私「何が」
B「PCも見た」
私「!」
珠玉の半角集が、動くやつ含めて全部消滅orz どうやってパスワード
見破った?
B「女はね、そういうの、いやなの。>>1は私だけを見なさい」
…だから、どうやってパスワードを見破ったのかなあ、と聞きたい、
小一時間問い詰めたいorz
B「パスワードを誕生日にしてるのは良くないよ」
…正直、スマンカッタ
不思議とBを怒る気持ちになれなかった。
Bが私を癒してくれているから、薄汚れた私でも愛してくれるから、
それでいいかな…
Bとの健全な交際が1年ほど続き、私は32になる直前に、Bの両親に
会った。Bの家は軍人一家。
・お父ちゃん 退役軍人(連隊長まで務めた)
・お母ちゃん 専業主婦
・お姉ちゃん 専業主婦(軍医さんの奥様)
・弟さん 職業軍人(新任の小隊長)
ご両親から、私のBに対する気持ちを問われ、私は習いかけの韓国語で
とつとつと答えた(ほとんどBの翻訳)。韓国語を使ったのが好印象
だったのか、何が気に入られたのかいまだに理解不能だが、ご両親の
お許しを得て、私はBと結婚することとなった。挙式は3か月後の2月、
場所はBの故郷の教会で、と決まった。
お袋が弁護士、親父が弁護側証人だったため、長兄、次兄も了解してくれた。
年が明けて、Bに電話した。
私「いよいよ来月だね」
B「うん…」
なんか、歯切れが悪いのは気のせいか?
私「来週には、打ち合わせでそっち行くから」
B「わかった、待ってるよ」
打ち合わせの日。
教会で、牧師先生とお話しした。Bのお母さんはこの教会の役員をつとめて
いるらしい。ひとしきり話した後、牧師先生が私にこう言った。
先生「>>1さん。彼女の一生を、守ってあげてください」
なぜ、そんな言い方をしたのか、私はよくわからなかった。韓国語の言い回し
なのか、韓国語のビギナーだから、理解できなかったのかな…Bも席をはずして
いるし。
Bは心なしか、疲れているようだった。
B「>>1、ありがとう」
私「何が」
B「ううん、ありがとう」
私「別に」
B「あのね、>>1」
私「何」
B「結婚式、延期しようか」
私「え?」
これまで破天荒な人生を歩んできた割には、私は律儀に段取りするタイプ
だ。今日牧師先生と打ち合わせをしたよね、えーっとその次は…
混乱する私を見ながら、Bが言葉をつづけた。
B「私、体の調子が悪い」
私「え?疲れてるように見えるけど…大丈夫か」
B「良くないね…病院に昨日行った」
私「何、どこが悪いの?」
B「わからない。検査の結果が出たらわかる」
私「大事にして、もう休んでね。明日帰るけど、B、毎日連絡するし、
気にするなよ」
B「うん」
私は、安否を問うメールを送りつづけた。
次の週、Bがやっとメッセンジャーにアクセスし、私にコンタクトしてきた。
B「この週末、韓国に来れるか」
私「何があったの?」
B「会ってから話す」
Bのアイコンがオフラインになった。
いうB。
B「私は、結婚できないし、日本にも行けない」
私「何?どうして?何言ってんの?」
B「私は、入院しなきゃいけない」
私「検査の結果、出たの?」
B「うん、でも、再検査が必要だって」
私「うん…でも、やめる必要ないでしょ、結婚。式は延期しよう。
式を延期して、Bはしっかり養生してよ」
B「>>1」
私「何?」
B「私の一生を、守れるか」
Bの一生、牧師先生の言葉がオーバーラップした。
楽しみに見てるよー
B「守れるかと聞いた!」
テーブルをどんと叩くB。周りの客がざわつく。
私「守れるさ!守ってやらあ!病気ひとつで結婚やめるじゃ、この先が
思いやられるよ!」
私「よーし分かった!絶対結婚式は延期しない。再検査の予定日は結婚
式の3日後じゃねーか、新婚旅行が病院ってのもなかなかねーぞ!
後から笑えるさ!」
韓国の地方都市のカフェ。日帝時代wならいざしらず、そんなところで
フル日本語で痴話げんかする男女はとても奇異に映ったかもしれない。
私「よーし今から区役所行こう。結婚書類もってきてるし、強制結婚
だ!」
B「絶対>>1は後悔する」
私「いやだ、しないでする後悔より、してする後悔のほうが100億倍
ましだ!」
昔、同じことを言った気がするが、これは私の口癖だ。しかし、いやな
フラッシュバックを感じた。
Bは長い間、私を見つめた。私はコミュ障+アスペで、人の目を見ないという
ことに定評ある人だが、家族以外、A、Bの目は直視できた。私も見つめ返し
た。
Bがつぶやいた。助けてね。愛してね。
二人で静かに泣いた。
涙を拭いて、区役所に行き、Bと私は夫婦になった。
週には韓国旅行&弟の結婚式なのに、ダメになりましてねグフフとか、言え
なかった。
そして、結婚式の2日前、私、両親、長兄(+兄嫁+甥+姪)、次兄(+兄嫁
2+姪)は、Bの故郷に到着した。旅行費用は、全部次兄が出してくれた。
長兄ばかり登場してきたが、次兄のほうが私は好きだw
両親の対面も済み、Bの弟が私の家族を観光に連れて行ったあと、Bの
お父さんが私を呼んだ。
B父「正直、気が進まない、こんなことしていいのか」
私 「私は何も知りません」
B父も、結構日本語使いな人だ。
B父「Bをよろしく頼む」
私 「はい」
総勢500人は超えていた。まあ、韓国では一般的らしい。
それ以前に、前日の結婚写真撮りには辟易した。
「新郎様~スマイル~」
写真でストーリーを作っていくのだが、延々4時間にもわたる撮影は
少なからずBにダメージを与えたかもしれない。それでも、Bは幸せ
そうだった。少なくとも、私はそう思った。
ささやかな2次会をした。その後、次兄嫁が私を引っ張り、こう言った。
次兄嫁「辛い選択したね、>>1君」
私は何も答えず、愛想笑いしてBのほうへ戻って行った。
B「私、痛いから、初夜できないよ」
初めては誰でも痛い、とか野暮なことは言わない。十分に分かっていた。
式の最中、とてもつらそうだったから。
B「代わりに、私の裸を全部、見て、触ってくれ」
そういうと、Bは、来ている服をすべて脱ぎ、窓際に立った。満月で、
高層階のホテルだ。下には家族が泊まっている旅館も見える。
Bの身体は、とても、とてもきれいだった。34とは思えない、まだ20代
前半といっていいような身体だった。
B「誰にも、見せたことはない。誰にも、見せることはない。そして、
今日だけだろう、>>1が私の身体を見るのは」
Bが絞り出すような声で泣いた。私は、同じように服を脱ぎ、Bを抱きしめ、
そして同じように、泣いた。
私は一度日本に帰り、日本での婚姻届を済ませ、仕事をし、その週末に
Bの入院している病院に戻った。
検査が一巡し、医師が私を呼んだ。
医師「配偶者ですから、同意書にサインをしてください」
私 「どんな病気ですか」
医師「大腸ガンのⅡ期ですが、癒着が広範囲にみられます。本人の同意を
得ていますので、術後、人工肛門を装着する予定です」
すべてが他人事のように思えた。
ほしいと、できる限りのものをBの両親に渡した。Bの両親は、それを
固く拒絶したが、半ばぶつけるようにして渡した。
Bの入院は2か月に及んだ。Bは別人のようにやせ細ってしまった。
皆さんには、心の糸を切らないよう、切に願います。私も、Bの両親も、
それに失敗してしまったから。
抗がん剤の投与、放射線治療、TVドラマでしか見たことのないような
そんな日々に、Bはよく耐えていたと思う。毛糸の帽子をかぶって、
「クリスチャンなのに出家した」と笑ったときには、こちらが泣いて
しまった。
でも、そんな穏やかな日は、3か月後に幕を閉じた。
こんなのがアスペなら人類滅びてるよ
B「私、もう一回入院しなくちゃいけない」
私「検査?」
B「>>1さ」
私「何」
B「別れよう、私たち」
私「何言ってんのさ!」
B「もう私が堪えられない、>>1を巻き添えにしたくない!」
私「…約束したろ」
B「…」
私「Bの、一生を守る」
屑野郎ですw
それだけに、貴重な嫁候補に逃げられたり、まあ、ろくなもんじゃございません。
おそらく、あなたとリア世界でお会いしたとしても、目も合わせない、キモ野郎
があなたの目の前にいるだけです。ピンポイントでしか、生きられない男ですよ。
Bのガンは、大腸から這い上がり、肝臓、肺、そして多くの医者が匙を
投げてしまうという膵臓へ転移していた。
Bも、Bの両親も、私も、どんどんおかしくなっていった。Bの実家で
Bの両親が私に憤懣をぶちまけることも多くなった。私は、何も言えなかった。
というより、この状況や、Bの両親に対する憎しみらしきものまで感じ始めて
いた。
モルヒネの手を借りて、やっと安らかに、痛みを和らげて、逝ってしまった。
スペック欄にBは45歳と書いたが、生きていれば、の話だ。
Bの死と同時に、Bの家族による私の放逐が始まった。無理もない。付き合って
一年ほどで結婚し、その娘が一年以内にいなくなったんだ、よっぽどの聖人
君子でもなければ、狂う。
手切れ金だ!と私に金を投げつけた。見たことある封筒だ。もとは私が出した
金じゃないか、こんなものいりません、と投げ返す。葬式には出るな、お前
のせいで娘が死んだ、この疫病神が!
Bと再び会ったのは、Bの死から3か月後、結婚記念日だった。それまで、
墓がどこにあるのかもわからない、そんなありさまだった。見かねてZが
教えてくれたのだ。
Bの墓は、というより納骨堂だが、Bの母親が通う教会の近くに、その
教会が持っている納骨堂だ。Bの家族がいないのを確かめて、入る。
いた。Bが、笑っている。結婚式の写真だ。意識的に、一人だけのものを
選んで何枚か置いている。
私は瞑目し、手を合わせ、祈った。涙が止まらなかった。
目も合わせず、人の顔も名前も、関心外では覚えないたちの毛じらみ野郎
ですから。
同じ会社で別部署の人に、町で「こんにちわ」と声をかけられ、愛想笑い
しながら話したが(誰だったかな…)という表情を読まれたのか、翌週の
会社で相当ネタにされてしまった男ですから。
大男がBの納骨堂にお参りしているという噂が立つのが早く、私は、5回目の
訪問で、Bの弟にぶちのめされてしまった。いくらアウェーでも、もうだめだ。
そこからは記憶がない。さらにぶちのめされて、1~2発はあてたかな、職業
軍人には勝てないね、私は昏倒してしまった。
しまったようだ。アウェーだからな、なにしろ。
した。仕事もまじめにした。Zとも連絡を取らなくなり、日本語の集いへ
の誘いも、一切断った。そうして、半年ほど時間が流れた。
最後のC編に移る前に、つなぎのお話を。
日本語の集いには、本当にいろんな人が来ていました。定常メンバーでも
60人はいたんじゃないかな、と思います。その中のおひとり、Y嬢が、
今の私の幸せをもたらすキューピットになってくれるのです。
YもBのデシでした。ただ、ものすごく静かな人で、あまり印象になかったorz
これが幸いしたのかもしれません。ただ、言うときにはキッツイことを言う人
です。ちびまる子ちゃんの野口さんタイプかもしれません。顔は全然違う方面
ですけどね。
Yは現嫁Cの大学時代の連れで、今も交流があります。この夏休み、嫁Cが
早めに韓国行きをしたのも、Yが出産したからそのお祝いに、ということも
あります。
Yが、私のメッセンジャーにコンタクトしてきたのです。
私「韓国の人とは、お話ししないようにしているんですが」
Y「ひどく、殴られてましたね」
私「!」
思いっきりフラバ。オフラインにしようとしたら
Y「ちょっと待って!」
コールが鳴りました。電話機能がありましたね。メッセンジャー。
Y「日本語の集いにいるYです。私も、Bセンセの生徒でした(ほう、正しく
日本語を使う)。>>1さん、あんまりかわいそうすぎます。日本語の集い
でも、>>1さんの話がいまだに出るんです」
私「もう切ります、さよなら」
Y「意気地がないですね。私はソウルに住んでいますが、今週末、Bセンセ
のお墓参りに行く予定です。私が見張りしますから、一緒に行きましょう」
…姐さんの呪縛w いざというときにNoと言えない日本人orz
私「良いっすけど、船で動きますから、待ち合わせは現地にしましょう」
幸い、ビートルに空きがあり、朝一番の船で半年ぶりの韓国訪問となった。
その日、私はYと一緒にソウルに行くことにした。
夏休みだし、時間は売るほどあった。ただし、日本語の集いへ参加する
のは嫌だとYに伝えた。いろいろ、思い出したくない。
ため息をついたYは、片っ端から電話をかけ、そして言った。
Y「私の大学時代の友達を呼びました。何人か呼びましたから、>>1さんの
慰労会をしてあげますよ」
高速バスでたわいもない話をしながら、その日の夜、ソウルに着いた。
このソウル行きが、C編の始まりです。
毎月→毎週
それではノシ
明日も楽しみに待っています!
おつ
また明日頼む
びっぷらって、自伝風創作ネタを作るのが好きな連中が
それぞれ披露しては互いのネタを賞賛し合ってるんじゃないかって気はする
創作であれば創作、事実であれば事実、虚実のご判断はご随意に。
人生ってネタみたいなものですから。
おもしろいっす
楽しみにしてるで
創作かな~って思うこともあるけれども、まあ俺は割と好きよこういうの。
最後に創作だったか実際にあった話か書いてくれ支援
人が簡単に死んだりしない展開で場をもたせられるネタ師ってあまり見かけないな
明日の荷造り、一緒に帰る嫁に殺されないように怠けた家事のリカバリー、台風対策をしながら最終編を進め
ます。
さて、虚実はお心のままに、と申しあげておりますが、正直、私の戸籍謄本と、思い出ボックスにある期限切れ
旅券の束をうpすれば済む話なのでしょう。そんな危ない橋は渡れませんw
というわけで、>>250様のご質問に、ネタにマジレスのご批判を承知で今のうちにお答え申し上げます。
メインストーリーは、真実です。ABCとの会話、行動、全くフェイクを入れていませんし、入れたくないです。
フェイク(創作)を入れたのは、
○私とその他の登場人物との会話、行動(除く姐さん)
医者に「大ピンポンw」とか言えるタマではありません。Aの病院行きでは、私はAの運搬以外、
まったくもって役立たずでした。オロオロするばかりでorz 花屋での私は、ガチorz
○北への逃避行には同行者がいた
Aの次兄w あまりに抜け殻になってしまったので、かわいそうに思ったのか、なぜかクマ牧場につれて
いかれました。クマーを見て癒され、家に泊めてもらい、5日後に北へ向かいました。
○私の2番目の職場(ブラック)と姐さんとの馴れ初め(プ
これはお察し下さいw 姐さんとは職場で知り合いました。姐さんは素行が悪すぎて首になりましたが、
ニッパイという立場をフル活用して悪事を働いていましたw
○Zは男w シカで泣いたのは一緒に来ていたZの彼女です。
○私の現在住んでいる場所
若干、揺らせています。メインストーリーがガチなので、すでに何人かに特定されていますorz 西日本は
間違いありませんw
長編平和小説や平和ゲーム(単に平和が続くだけ)が売れそうにないのと
同じ理由でしょう。
①私の次兄嫁がBの早逝を察した理由、それは彼女がホスピス勤務だから
です。後から言われました。「明らかに死ぬ人とその家族を見た」って。
②Yは森三中の黒沢さんにそっくりです。
いや、戦争が起こらない小説は山ほどあるし
人が死なない映画も世間には腐るほどあるからね
携帯小説風の不幸話が異常に好きなのがこの板に一定数いるのは間違いないが
その路線じゃないと食いつかないって訳ではないんだよ
ネタを書くのであれば、すごく手腕を問われる方向性ではあると思います。
鍾路(チョンノ)の繁華街に着いたYと私は、ある鶏カルビ屋に入った。
有名なところです、ここ。
すでにYの友達が待っていた。
○V 釜山からわざわざ呼び出された女の子。飛び級進学だったので、実は
YやCの一つ年下。一番かわいい子だ。今は結婚してメルボルン暮らし。
○W 一浪した苦労人だが、ものすごいおばちゃんタイプ。口数多しorz
なでしこの澤穂希選手にそっくり。この人も今は既婚。
○X 兵役から帰ってきたばかりの男性君。ザブングルの加藤君やら
さかなクンさんwの系統。後に貿易会社に勤めるほど、日本語は
激しく達者。しばらくはCと私の通訳を務めてくれた。
そして、C。私は、Cの隣に座らされた。
10歳前後の差がある。異様な会食が始まった。
VWXYは突然の来訪者である私に、いろいろと話しかけてくれた。
実質日本語をしゃべれるのはXYのみ。日本語しか話せない私。
もどかしい会話だったと思うが、まあまあ楽しい時間が過ごせた。
鶏カルビもおいしかったしw
しかし、隣のCはひたすらしゃべらない。たどたどしい韓国語で何かを
話しかけても「はい…」「ええ…」「そうですね…」愛想笑いはして
くれるのだが、全然ノリが悪いorz
さあ、飯も食べたしカラオケ(ノレバン)でも行こうということになった。
若者に交じって歓声を上げる浮いたおっさんorz
ちょっとまって、宿に荷物置きたい。ところが、ネットで予約した宿が
なかなか見つからず、6人が市中引き回し状態になってしまった。
だんだんとぶすっとしていくCを見ていると、大変申し訳なくなり、
私「私ノタメニ、申シ訳ナイデス(入門韓国語)」
C「大丈夫ですよ」愛想笑い。
それでも、ぽつぽつと会話を続けていた。
結局道がわかれば 5分の距離なのに、30分の食後運動になった。
C「あ、もう9時だ。私帰らないと」
私「ソウデスカナア(初歩韓国語)」
C「ソウル、楽しんでくださいね、>>1さん」
私「安ラカニイッテクダサイ(直訳韓国語)」
なんかものすごく大魚を逃した気分がした。いや、鶏カルビと一緒に
飲んだ焼酎のせいだorz
カラオケは3時間ほど続いたが、私は酒が一気に醒め、お追従で日本
の歌を歌い、宿に戻った。
Y「昨日のカラオケがあまり面白くなさそうだったので、もう一度遊びに
行きましょう」
私は指定された場所に向かった。
通りとして始まったところらしいが、現在は骨董屋としゃれたカフェ類
が共存する、ソウルの中でも私好みの街だ。
C、Y、Xが待っていた。
「>>1さん、暑いのでかき氷でも食べましょう」
私とX、CとYがそれぞれかき氷チームを組んだ。
韓国のカキ氷、ピンスは、姿かたちはどう見ても日本起源に見えるのだが、
「韓国伝統のお菓子」らしいw ただし、どこへ行っても、日本の喫茶店
サイズの4倍はあった。今はだいぶダウンサイズしているが、一人で食う
のは、一苦労だ。中には果物、モチ、あんこがドカッと入っており、練乳
がくどいほどかかっている。
!!!!!おい!マジェマジェするなってorz
きれいに盛られたかき氷が残飯氷と化すまでに、さほどの時間を要しなかった。
私は、自分が意図しないことをされると、一気に凹んでしまうタイプでもある。
X「おいしいですよ、どうして食べないんです?」
私「X君、大丈夫。たくさん食べてね」
Xの名誉のために言うが、彼は民族の習性に忠実だったに過ぎないw
マジェマジェを好まない日本人が一定数いるということは彼もよく知って
いるのだが、本能には勝てないw
Y「Cも混ぜるの好きじゃないから、チーム替え」
C「少しずつしか食べられませんから、>>1さんがたくさん食べて下さい」
私「アリガトウゴザイマス、ヨクタベマスヨ(一夜漬け韓国語)」
きれいなかき氷を、2人ですくいながら食べた。少し、和んだ。Cは
確かにあまり食べない。結局、私が7割ほど平らげた。
C「おいしいですね」
私「ソウデスネ、味ガイイデスネ(以下略)」
ソウルも夏場はひどく暑い。どこに行くのもおっくうだ。
Y「何したいですか」
私「実弾射撃」
実は、韓国人の女の子は概して実弾射撃を好まない。日本人の友達が興味
本位で、韓国人の彼氏がアピールのために行こうというからついていく、
そういう場合が多い。
私は生まれて初めて実弾射撃した。
「○○の顔を思い浮かべて打つと命中する」というのは正しい。
私はあいつやらあいつやら、いろいろ思い浮かべながら撃ってみた。
44マグナムは確かに反動がきつい。片手撃ちでは痺れが来る。
的の中心部に穴が開いていくのを見ながら、私は我を忘れて熱中した。
楽しんでいる私orz
C「楽しかったですか」
私「楽しかったです」XY「楽しかったってさ」
私「一人だけ楽しんですみません」XY「ごめんだって(以下略)」
壊滅的に韓国語ができないので、XとYが通訳を引き受けてくれた。
会話が一気に進んだ…のかな。
学生街)に向かった。
ミルクシェイクが飲みたいと女性陣が言うので、そろってキングサイズを
注文し、各人吸入開始w しかしこれが後に悲劇を呼ぶ。
弘大を街ブラしている間に、ファーストウェーヴがやってきたorz
私「…ちょっとさ、ここらへん、トイレってないかな」
韓国は、日本と違いトイレ環境がすこぶる悪い。絶対数がない。コンビニ
でも貸してくれない。また、あったとしても、古めかしい鍵をガチャガチャ
言わせるセレモニーを経て、開けた後に息をしっかり止め、左右どちらかに
あるブラウン模様の紙が入ったバケツを切なく眺めながら目的を果たさなけ
ればならないw
さらに悪いことには、私たちは町の切れ目を歩いていたorz
もう、どうにでもなれ~
Cが動いた。
神「なんですかいきなり」
C「すいませんトイレ貸してください!」
神「どうぞお使いなさい」
人生の幕引きを免れたw
神「紙は一緒に流していいよ(外から)」
X「一緒に流していいんですって(外から)」
ファーストウェーヴを解決できたので、のちのウェーブたちにも、私は
比較的冷静に対処できたw
しかないw …休憩。
3人だが、気にしないで、と私をなぐさめてくれた。
C「あ、私帰らないと…」
私「今日はごめんね」
C「ちょっと待ってください」
メモ紙を取り出すC。ペンをとり、何か書いて私に渡してくれた。
C「メッセンジャーのIDとメールアドレスです。今日は楽しかったです」
また大魚を逃した気分がした…が、撤回。
skypeはいろいろと便利だ。XとYは、メッセンジャーの翻訳機より性能が
よくw、Cと私はお互いの言葉ができない状態ながら、会話を楽しめた。
ただ、そういう状態に満足できない私は、韓国語を一から勉強し始める。
Cが好きだから、というより、Cとダイレクトに話がしたくなったから、
というほうが、この時点では正しい。
主にNHKだが、教材や本で知識を詰め込み、Cの話(入力された文字)を
必死に見、知らない表現をメモし、自分でも使ってみる。
C「そういう時は、その表現を使いません」
私「すいませんorz」
3か月たつと、翻訳機(XY含むw)がなくても、だいたいメッセンジャーで
話せるようになった。IMEのハングル配列を覚え、ブラインドで入力する。
もともと、語学に関心があったので、むしろ楽しい時期だった。
一緒に週末を楽しんだりした。
X「>>1さん、韓国語覚えんの早いですね!」
私「そうでもないよ」
X「いやー、僕の日本語より数段上ですよ」
私「感じ悪いw 日本語1級のくせに」
こうして楽しい時間を過ごす中で、Cが私と会う直前に彼氏と別れたこと、
そのために両親と気まずくなり、かなり厳しい門限(特別時には9時帰着、
ふつうは6時帰着)を受け入れていることなどを知った。
私は、自分のことを、話せなかった。
引き連れてきたからだ。後に聞くと、何かされそうで、私が怖かった
らしいorz それでも、Cは、私の韓国語上達をほめてくれ、お互いに
深い話ができるようになったことを喜んでくれた。Cは私を「アジョシ
(おじさん、知り合いの年上の男性)」と呼ぶようになっていた。
Bの記憶が、だんだんと消えていきそうだった。
過ごす罪悪感に悩まされるようになっていた。Cたちとも話をしながら、
Cを好ましく思う自分を、あさましく思うようになっていた。
人って、こんなに早く忘れていいのかな
こんなに簡単に、次を考えていいのかな
Bの一周忌の夜、私はBの納骨堂へ再び出向いた。殴られる覚悟で。
私は、次を見て、君を忘れたいと思っているよ。
Cっていう子がいるんだ。
私と10歳も離れているんだ。泥棒だね。
(韓国では年の差カップルの年上男を泥棒という)
でも、Cが私を見てくれるかどうかわからない。
B、私はどうしたらいい…
また来る、B、ここ一両日で決着をつける。
殴られることもなく、誰にみられることもなく、
私は納骨堂を後にした。
私「C、話があるんだ」
C「私も話がある、っていうか、今日電話が来ると思ってた。
昨日、アジョシ、○○(Bの故郷)にいたでしょう」
私「Yから聞いてい」
たんだね、と言おうとした私をCが制した。
C「アジョシは私をだました!」
彼氏のことも言った。何もなかったけど、それでアジョシが気分を
悪くしたら、それは仕方ないねと思ったから正直に言った。全部。
私は、アジョシがいい人だと思ってた。信じられる人だと思ってた。
おじさんだし、クマみたいだし、服のセンスも悪いし、自分勝手だから
その年で結婚もしてない、でも、アジョシはあったかい人だと思ってた。
アジョシは私をだました!結婚してたんでしょ!
アジョシは汚い!Yは関係ない!
どうして、どうしてそんな…
自分に嘘をつく人を、アジョシは好きになれる!?
Cは大声で泣き出した。
私は、寒空で公衆電話の受話器を持ちながら、Cの嗚咽を聞き続けた。
私は、心を決めた。
私「一時間後、君の家の近所のスタバで会おう」
Cが何かを言いかけたが、私は構わず受話器を置いた。
C「全部知ってる」
私「そうか」
C「アジョシの口からききたかった。最初に」
私「そうか」
C「私は、アジョシが好きだ。とっても悔しかった」
私「そうか」
C「アジョシは、何も言うことないの?」
私は、自分のこれまでを、Cに話し始めた。
Cは黙って聞いていた。
私「そういうことだ。ごめん。もう、私は君に会う資格がない」
私、敵前逃亡…そのままBの故郷へとんぼ返りorz
Bよ、やっぱりだめだったわ。
だめだよね。だめだ。
Bよ、君みたいに、Cを傷つけちゃったよ。
私は、生きてる資格がないね。
Bよ、いっそ、連れて行ってくれないか。
…もう、どうでもいいや。
いえ、非常に楽しく読ませてもらってるので期待してるww
とりあえず、メッセンジャーを起動させるパブロフの犬w
激しい数のログ。
全部Cからだ。
会いたいです。連絡ください。
滝のように流れる同じ言葉。
今度は定刻通り、Cがスタバにやってきた。
私「逃げてごめん」
私「…ごめん×100」
C「ほかに何か言うことはないの」
…言葉をひねり出すのに、ものすごく時間がかかった。
涙と鼻水がとまらなくなった。
顔がぐしゃぐしゃになってしまった。
たとえて言えば、漫画の山下たろー君状態orz
ごめんなさい(ゴベンバサイ、こんな感じで。以下略)
逃げてました、あなたから。
私は情けない男です。卑怯です。
昔の恋を引きずって、昔の悲しみからも逃げてました。
あなたを好きになりそうだった。あなたと幸せになりたかった。
でも、また、後悔しそうで、それが怖かった。
それで、言い出せませんでした。
もう、私には、後悔をする力は残っていません。
嫌われるなら、それで仕方ありません。自業自得です。
こんな男が幸せになってもいいんですか。
こんな男をあなたは好きになってくれるんですか。
私は、もう、失うのはこりごりです。失いたくない。
あなたは、こんな私を助けてくれるんですか。
無理でしょう。私は、汚いから。
Cが、もう出ましょう、と私を促した。
涙と鼻水をコートの袖で拭きながら、Cと私は、外に出た。
着くはずなのだが、Cと私は1時間ほど、とぼとぼと無言で歩き続けた。
Cが私に言った。
新年の福をたくさん受け取ってください。
帰り道の教会の時計が、1時を指していた。
2006年1月1日。その日、私の彷徨が終わりを告げた。
Cは私の手を取って教会へ歩いて行った。
教会には、新年の祈りをささげる人たちが集まり、賛美歌も聞こえてくる。
でも、私たちは、お互いの顔を眺めるための灯りがほしかっただけだった。
Cはスッピン派で、もっさい学生みたい、と職場(現代系の会社で営業事務
をしていた)でからかわれていたそうだが、ちょっと化粧すると、ひいき目
ではなく、イ・ヨウォンに化ける能力を持っていた。Cは久々の化粧をして
会いに来てくれたのだ。
私は、図々しくも、こう尋ねてしまった。
キスしていいですか。
Cは、何も言わなかった。私たちは、教会の階段で、唇を重ねた。
ここからは、エピローグ&補足。
さすがに年の差、国籍、様々な障壁があったから。それに、Cから死別の
ことは墓に入るまで秘匿せよとの指令が下ったため、Cのご両親はいまだ
それをご存じない。
そして、なぜCが私の過去を知ったか、その理由を聞いて私は愕然とした。
だから、怪しい、と思ってアジョシのhotmail、のぞいたの」
私(何!?)
C「アジョシ、バカだね。自分の携帯番号を暗証番号にしちゃいけないよ」
私(フラッシュバックが…)
C「あ、言っておくけど、今後、私にはhotmail、yahoo、naver、全部暗証
番号を教えなさい。じゃないと別れる」
私「わかりました…orz」
Cはいまだに自分の情報は公開してくれないw
嫌な予感がしたので、ネカフェに行き、メールを開くと
Bとのメールのやり取りが全部消されていた。そして新着一件。
C「あなたに、私を怒る資格はないよ」
Y「私がなんで>>1さんのことをCに言わなきゃいけないの?>>1さんが悪い」
W「>>1さんが(以下略)」
韓国人は、人んちの冷蔵庫だけじゃなく、思い出ボックスも、半角フォルダも
メールも勝手にいじるので注意w
テクノマート(場所バレw)のスカイレストランで、席を設けてごあいさつ
した。
Cの親父さんは北米市場への輸出を主にする服飾メーカーの部長さんで、
実直な人だ。お袋さんは派遣会社のマネージャー。ついでに、妹と弟が
一人ずつ。妹はアニメの原画描きでコスプレイヤーw、弟はSEだ。
あいさつした時にはさすがに年の差に引かれたが、誠実そうな私orzが、
韓国語を流暢に操り、きちんと正業に就いていて、汗をかきかき娘さんを
下さいとか言っているので、しょうがないね、と笑って許してくれた。
Cが私と結婚してもいいねと決断し、そして、私がCと結婚するしかない、
と考えたきっかけが一つずつある。どっちも下ネタorz。断わっておくが、
結婚前はチューしかしてないorz Cに秘密で晒すw
私の泊まるゲストハウスを訪れて、さあ、出かけようとしたとき、Cが
何だかそわそわし始め、慌ててバスルームに駆け込んだ。
私「どうしたの?」
C「ダメ!来るな!」
私「何よ」
C「あのさ…始まっちゃった」
私「何が(マジ質問)」
C「バカ!」
私「あorz」
C「どうしよう…替えの下着もないし、ナプキンもない」
バスルームで大泣きするC。
買ってくればいいじゃねーか。
私は「出かけてくる」と言い残してミッションを完了した。
Cは、ごめんなさいを100回繰り返した。何が。悪いことじゃない。
Cによると、韓国人の男ではありえない行動らしい(そうか?)
それでも、必要な時に、必要なことをしてくれた私をとてもありがたく
思ったらしい。
教会の階段のほうが、よっぽどアピールポイント高いと思ったのにorz
どうも、韓国を行き来するようになって、赤い粉やら寒い気候のせいで
尻の栓が緩くなりつつある私orz
ご両親のお許しを頂いてから、私はCの実家(もちろん別間)で宿泊する
ようになった。
C「博多文庫行こう!」
私「おう!」
ソウルに当時オープンして間もない、人気ラーメン店だ。
気温、マイナス12度。西日本出身者には根性の入る冬の夜だ。
Cは重装備、私は軽歩兵orz まあ、着いたらすぐ食えるでしょう、と
思ったのが甘かった。寒空で40分待ちorz 確かにラーメンはうまかった
が、パドックを回りすぎて私は熱発、2008年の正月を寝て過ごすはめ
になってしまった。
高熱だけならまだしも、尻が言うことを聞かないorz 下痢でも腹筋で
幾分止まるのに、全然ダメ。ふらふらしながらトイレに駆け込む途中で
あ…
どうだい、彼女の実家の居間でウ○コしちゃったぜい、2回もorz
ご両親は笑って許してくれたが、それ以降、分厚いコートを着ないと
外に出してくれなくなったorz コートは弟さんのおさがりorz
その日に仕事のために日本に帰る私。
私「8月、日本に来るのを待ってるよ!もう、Cの家は日本にあるんだよ!」
Cは区役所でボロボロ泣いた。私も泣いた。うれしかった。
とても幸せだった。そして、1年後の結婚式記念日に、ご子息Dが誕生する。
Cは、子供を産んでから、慣れない日本の田舎生活を一生懸命がんばって
くれています。結婚当初は、包丁も持ったことがないのにと苦労していま
したが、おいしいね、と褒めた料理を連発する荒業は別にして、家事上手
になっています。
日本のケーキがおいしいのが悪い、パンも韓国の百倍おいしい(確かにそう
だが)と言いつつ、イ・ヨウォンに化ける能力を喪失しつつありますが、
近所の公園でデートしても、道端のタンポポをあげたとしても、純粋に
喜んでくれる嫁です。喧嘩はしますが、頭が上がりません。
ご子息Dは幼稚園で親に似ない如才なさを発揮しつつ、友達を多く作って
います。
D「○○ちゃんに手紙もらった、好きですって書いてある」
私「バッカでー、年中なのに好きですとかw」
本当に書いてあったorz お父さんをその年で超えるなよw
…皆様のお目汚しですみませんでした。 Fin
長々とありがとうございました。
これからも幸せにな!
ありがとうございました
これからもお幸せに
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